「銀行のATMの列に並んでいる時でも、友達は出来る。」かどうかは、自分の心次第。 |
日本社会では、友達を作れるのは、小・中・高・大学の時が主で、社会人に成ってからの友達作りは難しい。特に男性の場合は、仕事をしている現役時代はほぼ会社人間になり、付き合う相手は会社や職場関係者ばかり。退職後は、自分が住む町で地域の人とのつながりが持てないまま孤立してしまうと言われます。それは一体どうしてなのでしょうか?その理由の一つは、大人になり社会人としての生活が始まると、どの職場でも仕事が忙しくて友達を作る暇が無いというのは確かにあるでしょう。でも、それだけでは無いと私は気付きました。結論から先に言えば、「もしも、ある人が、家と会社の往復だけの単純な日常生活を繰り返していたとしても、新たな出会いは無数に必ずある。」という事。でも、その出会いが始まらないのは、他ならぬ自分自身の考えが影響している。と言う事です。 |
一体どういうことかと申しますと、現在の私なら「出会いはいつどこでも起こる。」という当たり前のことにやっと気付けたのです。そう思えるようになったきっかけも旅のお陰でした。イタリアやフランスにチーズの仕入れで旅に出るようになり、彼らヨーロッパの人たちと直に接する機会が持てると、彼らの他人に対する接し方や考え方が明らかに私達日本人とは違う事を知ったのです。そして、彼らの様な考え方・接し方が出来るようになると、日本で暮らしていても、良い出会いを生かせますし、新たな友達も出来るということに気付いたのです。 |
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ある例を挙げれば、以前こんなことがありました。ある年、イタリアのトスカーナ地方にオリーブオイルの生産者を訪ねました。畑を見て廻っている途中で、湧き水を汲んでいる人たちを見かけました。今正に汲んでいる人とポリタンクを持って順番を待っている人が、とても明るく楽しそうに話をしていました。あまりにも楽しそうに話しているので、彼らは友達なのか?とそのオリーブオイルの生産者に聞くと、「いや、今知り合った同士のようだ。」というのです。こんな事は日本ではありえません。というか私のこれまでの人生経験ではありませんでした。そして、友達が出来る時は、どんな時かと聞くと、「いつでも。」と答える人が日本人よりも多いことに気が付きました。それは、例えば銀行のATMの行列の中にいる時だって、お互いに気が合えば友達になれるというのです。しかし、日本人同士ならば、お金が盗まれないかと警戒し合っていたり、前の人が早く終わることをただ願っている気持ちはありますが、こうした状況で、世間話が始まるなんてことは、私も含めて見たことがありません。日本では列に並んでいるもの同士が、目を合わせたり、お互いに挨拶すらしないので、新たな出会いが生まれるはずがありません。こうした行動や考え方の違いが、簡単にというかいつでも友達が出来る・出来ないの差になっているんだと私は気付いたのです。また、何と言っても日本人は初対面の人間に挨拶すらしなことが多いです。例えばエレベーターで一対一の場面でも、挨拶することはもちろん、目を合わせることもなく、互いが階数を示す表示板を眺めています。だから、友達が出来る前から出会いを放棄しているように今の私なら思えます。こうした国民性の違いを知ったお陰で、私の人生は大きく変わりました。 |
また、イタリアでは年齢に大きな開きがあっても、友達として認め合う関係が数多くあります。私の好きなイタリア映画、「ニューシネマパラダイス」では、初老の映写技師のおじさんと映画好きの小学生の男の子との友情が描かれています。こんな事は日本であるのでしょうか?私の中学校生活では、たった一年上の先輩が部活でとても威張っていて、下級生をいじめていたりと情けない劣悪な人間関係がありました。だから、1歳でも違う年齢の人同士が友達になるなんてことは無いのです。でも、「もしも、彼らの様に様々な年代の違いや性別の違いや職業の違いを超えて友達になることが出来たら、どんなに豊かで実りある人生を送れることか。」と私は気付いたのです。そして今では、いろいろな人と話が出来るようになり、楽しい毎日を送っているのです。 |
では、どういう考えになれば、或いはどうすれば、彼らヨーロッパの人たちの様になれるのでしょうか?その方法はいろいろとあるとは思いますが、私の場合は、良く寝ることだと思います。そして、美味しいものを食べていることだと思います。この2つがあると、毎日エネルギーに満ち溢れます。別に自慢しているわけではないのですが、私の様に元気な人がいると、会って見たいなぁとか話をしてみたいなぁと思われるようになります。また、自分にエネルギーがあると、今度は自分が他人に興味を持てるようになります。人とお話しするのはエネルギーが要ります。まして、初対面ならなお更です。だから都会暮らしで疲れている人は、「隠れ家」と呼ばれる居酒屋や地方のリゾートホテルに行って人を避けて週末を送っているそうですが、こういう人にはたくさん休んで健康に成って欲しいと思います。さて、自分にエネルギーがあると、「どこかに面白い人はいないかなぁ?」と探すようになります。すると行きつけのパン屋さんに行っても、買うだけじゃなくて店の人やその場にいるお客さんとも世間話をするようになります。もちろん、顔の表情で自分と話がしたいかどうかなんてすぐに分かりますから、気が合いそうな人とだけお喋りすればいいのです。この繰り返しから、友好が深まり、お互いに作った野菜をあげたりもらったりというような交流が始まり、ますます美味しいものが食べられるようになるのです。えへへ ^^) |
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先ほどの例(良く寝て美味しいものを食べる)というのは、半分冗談ですが、大事なのは、誰とでも挨拶が出来るように自分を変えることだと私は思っています。そして、今まで自分が考えていた「友達という範疇」を一旦無にしてしまえるかどうかだと思います。以前の私なら、例えば役所の窓口の人を新しい友達の対象として見たことは一度もありませんでした。これがいけなかったのです。その人間を見ないで、その人の「今の立場」でしか相手を捉えていなかったのです。例えば、チーズマーケットに来るお客さんは「単なるお客さん!」としか捉えていなかった以前の私は全然駄目でした。でも、彼らお客さんの多くは、都心から離れた交通の便が悪いこの場所にあって、しかも金土曜日しかやっていないチーズマーケットに時間を合わせて車を運転してやってくるのですから、相当なエネルギーの持ち主だと気が付いたのです。だから、私の心が「びびっ」と躍るすごい人が来ている事に段々と気が付いたのです。そして、「あぁ、友達になりたいなぁ。」と思うように気持ちが変わっていったのです。だったら、「仲良くしましょう。」と正直に言えばいいのです。その為にはその様に接したらいいんです。試食も多く出してあげたり、梨やみかんも食べなさいと差し出すのです。すると私が好意を持っていることが伝わります。こうしたことは、今の日本人の常識からすると、中々出来ないことですが、客と店員という「立場」を越えて、お互いを一人の人間として対等に見られるようなったのが良かったのです。だから、パン屋さんや八百屋さんのスタッフの人たちとも仲良くなれるようになったのです。よく行く新千歳空港の銀行の窓口の女性とも、回数を追うごとに目の合う挨拶や会話が出来るようになりました。だから、以前の私なら銀行に行くと、とにかく早く処理してもらうことしか頭に無くてイライラしていました。そうです、待たされるのが嫌でした。でも、今ならこんな数のお客さんがいるなら仕方ないなぁとか、窓口の人は頑張っているなぁと相手を思う気持ちが生まれるようになりました。そして今ではじっと待てるし、呼ばれた時には、「やってくれてありがとう。」という気持ちが自然に浮かぶ様になり、自然と「ありがとうございます。」と目を合わせて言える様になったのです。そういう気持ちの私の前では、相手の女性行員の方も、特別にっこり微笑んでくれるように変わるのです。すると私は何処に行っても何だか気持ちが楽しい人間に変わってしまったのです! |
大事なのは、何歳になってもどんなに地位や名声や評判が上がっても、どんなに金持ちになっても、「ただの一人の人間」と自覚をすることです。そして、いつでも何処でも誰に対しても対等に接することが出来るかどうかなんだと思います。自分と目が合って話が出来る人を探し、その人と友達になればいのです。仕事や事業などで成功を収めている人ほど、頭が低いというか、謙虚で落ち着いた人であることは世間の常識です。方や選挙で落選したのに比例区でゾンビの様に悪法でよみがえる国会議員の様に、とても偉そうにしていますが、このような奴らに私は興味がありません。男だからとか女だからとか年上だからとか年下だからとか、ここはATMの行列だからとかいう理由で、友達になる時じゃないと自分で境界線を引いているようでは、彼らイタリア人のように新しい友達を作ることは困難です。時と場、立場の違いを超え、自分の感性を信じ、見知らぬ人とも挨拶をし、友達になりたい人かどうかを見極めればいいのです。自分がいいと思ったら、相手の気持ちもありますが、いつでも友達になれるということなんです。だから、家と仕事の往復だけの生活でも、駅のホームや電車の中で新たな出会いもあるはずなんです。でも、そうした出会いを遮断しているのは、実は自分のこれまでの「了見の狭い常識」だったことに多くの人が気が付いていないのです。了見の狭いと言うのは、例えば日本では知らない人を指して、「どこの馬の骨か分からない。」なんてひどい言葉を言ったりします。また、「触らぬ神にたたり無し。」なんて消極的な格言もあります。でも、こんな言葉を信じて行動して、相手を疑うような姿勢で生きていたら、知人や友人から紹介された人としか付き合うことが出来なくなります。つまり、一向に友達の枠が広がって行かないのです。また、いろいろな初対面の人達とも常に接して生きて行かなくては、自分の感性や心は磨かれません。日常生活で、全ての他人を役職や立場でしか捉えていないと、その人だけが持つ素晴らしい個性を見出すことは無理です。新千歳空港にある保税倉庫にチーズを引き取りに行く時、門に立つ警備員さんに対する私の態度が大きく変わました。以前なら許可証を窓を開けないまま見せて素通りしていただけだったのが、今では帰り際に窓を開けてスピードを落として目を合わせ、声を出して挨拶するようになりました。それは相手にとっても嬉しいことだと思います。以前の私なら単なる一警備員としか見ていなかったので、自分にとってどうでもいい存在に思っていました。でも、この人も私の仕事を支えてくれているんだと思えるようになりました。また、今日一日で出会った人の中の一人だと思えるようになりました。だから今では相手の警備員さんから、「気を付けて札幌まで帰ってね。」と笑顔で声を掛けられる様になったのです。すると、もうそれだけで心が楽しいのです。簡単に言えば、以前の私は、人を大事にしていなかったんだと思います。銀行に行き、窓口の人を見て、単なる「銀行員」としか捉えなければ、親しくしようなんて発想が生まれませんし、まして友達になるなんてありえません!そんな考えじゃ人付き合いが広がっていくわけが無いのです。客だからとか店員だからという立場だけで人を見て行動するのではなく、同じ美味しいものを求める仲間とか、同じ日本人だとか、同じ道産子だとか同じ働く仲間なんだという様に相手と何らかの共通項を見い出して相手を見つめることが出来れば、新しい関係が始まる一歩になるのです。日本人に欠けているのは、仲間意識だと思います。タクシーを待つ順番や列車の自由席に座る為に競い合う光景は多く見られますが、譲り合ったり助け合う気持ちが薄いのが残念です。自分の周りにいる人を友達や仲間だと思えれば、優しくなれるし、より良い物を勧めたいと思うようになります。これを「愛」というんじゃないかと私は考えています。 |
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ベルリンの壁みたいな自分の心の中にあった友達の定義を全部取り払えば、いつでもどこでも「人間的な魅力があるなぁ。」と思う人を探せる心が持てるよう変わるのです。そして、いろいろな人との交流を深めて豊かな人生を送ればいいのです。人は数多くの友達が居れば、豊かな人生になるのではなくて、一体どれくらい深くお互いを理解し合えるかという親友を持てるかどうかだと私は考えています。だから、自分の力量に合う数の友達を持てれば、それでいいのです。その為には、常に自分の心の扉がすぐにぱかっと開ける準備が整っているかどうかが重要なんだと思います。これからも私はチーズマーケットという仕事を通して出会ういろいろな人たちと仲良くなり、美味しいものをお互いに分け合って楽しく、美味しく生活していきたいと思います。「銀行のATMの列に並んでいる時でも、友達は出来る。」・・・・この言葉は、私の考えを大きく転換してくれました。(おわり) |
「銀行のATMの列に並んでいる時でも、新しい友達は出来る。」かどうかは、自分の心次第。 |