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「毎日の家事や仕事からでも、自分を磨くことは出来る。」と悟っていたのか。


あれは、2006年の3月のことでした。久しぶりに福井県敦賀市にある実家に帰ろうと中部国際空港行きの飛行機に乗りました。そして、どうせなら同じ県にある永平寺にも行って見たいと思って訪れました。そこで私は一生忘れることの出来ない光景を目にする事となりました。実はその光景は、私が中学2年生の時にあった一泊二日の研修旅行の時にも見ていました。でもその時は、その光景に潜んでいる「深い意味」に気付くことは出来ませんでした。(注;私は、これしかないと信じる様な宗教を持っていません。)

 

では、どういう光景だったのでしょうか。それは、この寺に修行に来ている若者が働いている様子です。彼らは、寺に入ると、頭の髪の毛を剃り落として丸坊主になり、袈裟を着て、「雲水」と呼ばれる修行僧になります。しかし、修行僧になったからといっても、一日中座禅を組んだりお経を唱えての修行が出来るわけでは無い様です。むしろ、座禅やお経を唱える時間よりも多くの時間を労働に使っている様です。その彼らが、いろいろな場面で働く「姿」に私の目は、釘付けになったのでした。

 

私がこの寺に30年振りに来てまず思ったのは、たくさんの修行僧が居ることでした。「この寺で是非修行がしたい。」「修行を通じて己を磨きたい。」、「自分とは何かを確かめたい。」・・・いろいろな動機で多くの若者がこの寺の門を叩いたのでしょう。若者の数の多さに私は驚きました。何故なら、科学技術の発展のお陰で、何不自由の無い便利で快適な現代社会で暮らせても、満ち足りた心を得るのは、昔も今もとても難しい事なんだと思ったからです。

 

そして、それ以上に私がはっとした事は、彼らがしている仕事の中身でした。ある雲水は、私達観光客が見学して歩く道順を案内していました。ある雲水は、見学の最後にあるお札やお守りなどの販売所で、販売や接客をしています。また、ある雲水は、お寺の台所に入ってこの寺のお坊さんの為に、精進料理を作っています。「これって、実社会でみんなが毎日働いている仕事の中身と全く同じだ。」と。また、多くの雲水達が床や階段を雑巾掛けしている様子も案内ビデオに出ていました。修行僧は、朝から晩までずっとお経を読んだり座禅をするから修行なのではなく、こうして寺での生活で必要な家事や仕事に取り組む日々なのです。


6月(2008)のアルザス地方で出会ったさくらんぼを売る奥さん。おいしくて安い。私たちは何度も買いに行きました。販売は、修行をするいい機会です。

この時、私はハッと気が付きました。「そうなんや! 寺に入らなくても、僕達の日常生活で修行になる事は、たくさんあるんや。」・・・と。そして、回りが急に明るくなったのをよく覚えています。「心持ちさえあれば、日々の生活の中に修行になるきっかけがいくらでもあると分かるし、それを活かして修行をすることも可能なんだ。」と。

 

でももしも、この寺で修行がしたいと思ってやってきた若者が、先の例の様な仕事(掃除や料理、接客、販売)をやることになった時、「どうして自分が、観光客の相手なんてしなきゃならないの?」なんて疑問が湧いたり、適当に仕事をしていたのなら、この若者はこの寺で過ごしても何も得ることは出来ないだろうなぁと想像しました。目の前にある仕事に対して前向きな心持ちが無いからです。「折角、寺までやってきたのに、どうして毎日床を雑巾がけしたり、トイレ掃除をさせられるのか?」「おまけに観光客のおばちゃん達の世話をするとは・・・。」「いつになったら、お経を読ませてくれるんだろう?」とか、「いつになったら、座禅をさせてくれるのだろう?」・・・などなど。このような事が頭に浮かぶ内は、全くお話にならないです。何かに打ち込めば、それに見合う何かが得られるという「信じる心」と言うか心持ちが持てて始めて、正(+)の方向を進む様に流れが変わるのです。そういう心持ちが無ければ、以前と同じ方向のままなので、何も得られないのです。修行とは、それを行う場所、方法、形が決まっている訳ではないし、また場所や方法や形がどんな風なのかが大事でもありません。何かに打ち込むことが、その人にとってきっかけになり、「よしっ!」と、自分の心を自分の意思で整理させていく過程なんじゃないかと私は考えています。だから、日々の仕事を通して、そのきっかけがつかめたら、仕事も修行の一部になっている、いや修行そのものに成り得るのだと思います。

 

そ、そうなんです!「修行を行なう場所は、寺だけではない!」という事に私は気付けたのでした。また、「座禅をすることや真冬に滝の下に立ち、冷たい水に打たれるだけが、修行の方法でもない。」と。別の例を挙げれば、受験勉強をするのは、予備校に通わなくても、自宅でも出来るというのと同じ発想です。予備校や寺に行けば、確かに先生や先輩僧侶の話が聞けるものの、最後は自分で自分の事を見出さねばならないのが、修行なんだと思います。一人立ちするというか・・・。今回の話で私は、寺の存在意義を疑問視しているのではありません。^^)宗教を否定しているわけでもありません。^^)私が言いたい事は、結局「修行とは、自分とは一体どんな人間なのか?という自己を冷静に見つめられる心を養うこと。」なんだと思います。見つめ直すきっかけの中の一つとして、「寺に入る。」という行為というか選択があるのだと思います。それ以外の選択を通しても、修行は出来るのではないか?と気付いたのです。例えば、病気を患い入院して日常生活から隔離されることで、改めて自分を見つめ直すきっかけになる人も多いと思います。また、私の様に一人旅に出掛けることで、日常とは違う空気の中で過ごし、それが自分を見つめ直せるきっかけになり、何かをつかんだ人もいると思います。

 

幸いにも私は、このことに気付くことが出来ました。だから、部屋を片付けたり、乾いた洗濯物をたたんで箪笥に仕舞うような家事も、三食の全てを自分で一からこしらえるのも、全て自分にとって小さな修行になると感じたのでした。(毎日や毎食実行するのは、難しいですが・・・)お金を稼ぐことだけに集中して働いて、身の回りのこと全ては、お手伝いさんを雇って他人に任せることも一つの生き方です。でも、私ならそういう働き方・生き方では、何かを失っている気がしてなりません。その失ったものは、稼いだお金で埋められる物では無い気がします。買ってきた冷凍食品をレンジで温めて食べても、空腹は満たされますが、自分が磨かれることはありません。コンビニのおにぎりを買って食べても、同じことです。私は、自営業になれたお陰で、外に働きに出掛けることがなく、ずっと家に居ることが出来ます。そして、毎日毎日自分の食事の用意をするだけでも、意外と大変だということを知りました。家事は、やってもやっても終わりがないことも知りました。だから主婦の仕事を以前よりはずっと理解出来るようになりました。そして、この家事という仕事をずっと真面目に続けていたのなら、きっとあの寺の台所で働く雲水達と同じように何かが見えて来るとも思いました。料理を始め家事という労働は、頭を良く使うということも分かりました。米を研ぎ、糠の臭みを素早く取る。そして飯を炊く。白菜を切って洗い、塩を振り、細く刻んだ生姜と一緒に漬物を作る。味噌汁の出汁は、寝る前に昆布とじゃこを水に浸して置き、翌朝に大根を入れて煮立たせた後に味噌を入れて完成させる。冷蔵庫の中にある食料品を確かめて、不足している物だけを買いに行く。これを何十年とやっていれば、何らかの力が身に付くと思います。

 

出来合いのものを買って食べれば、時間の節約にはなります。でも、料理をしない事で生まれたその時間を一体何の為に使うのかが、重要なんだと思います。永平寺を開いた道元禅師は、今から何百年も前から気が付いていたんだと思います。だから、「毎日の生活をきちんとすることが、修行の前段階であり、それが出来て初めて、座禅をしたり、お経を唱えることに深い意義が生まれる。」というようなことを言いたかったのではないかと感じました。だから、修行をしたいと思う若者達には、まず日常生活で行われている掃除や洗濯、料理、接客を寺の生活で課していたのだと思います。

 

それにしても、この接客という仕事を私は見直しました。これは、本当に自分を磨く為にも良い仕事だと。本当にそう思えるようになりました。接客は、素晴らしい仕事です。いろいろな人に出会えることで、自分を見つめ直すきっかけを与えてくれるからです。その他にも掃除や洗濯等の家事も良い仕事だと思えるようになりました。


時代が変わって便利な世の中になっても、最後には、どれだけ自分の時間と手を使って日々の暮らしを作りあげてきたかが、あとでものを言うんだと思います。(添加物の少ない食べ物を口にすることで、病気をしないで長生きができたり、身に回りのことは自分でやり通すという覚悟があれば、どんなに忙しくなっても、いつも楽しく笑って過ごせたり・・・。)そして、そういう作り上げていく努力の日々から、自分という者を見い出すことが出来るのではないかと思います。だから、どんなに外で頑張って働いて帰って来たとしても、最低限自分の身の回りのことは、自分でやるようにした方がいいと私は自分に言いました。これが前向きに生きようとする心持ちなんだと思います。一方あるTVドラマでは、会社から帰ってきた亭主が、玄関口からネクタイを取り、背広を脱ぎ捨て、シャツを脱ぎ捨て、その後を奥さんがそれらを拾って歩くといった場面を目にしたことがありますが、こんなことをしていては、亭主も奥さんにとっても良くないと、今は分かります。働き過ぎなんです、この亭主は。バランスの悪い生き方というか生活をしているのだと思います。いわゆる仕事人間になってしまっていては、自分を磨く時間を持つなんて永遠に出来ないと思います。「俺は、外で働く、家の中のことは、お前に任せた。」何て奥さんに言って、自分の身の回りの事すらやらない(出来ない)ければ、この修行僧達の様に自分を見つめ直せないでしょう。外の仕事を最重要視する一方で、家事を軽んる様な態度でいる間は、何も見つからないと私は気が付きました。「いっぱいお金を稼いで帰って来たんだから、家の中の事はやらなくても良い。妻の美奈子にやってもらうおう!」なんて安易な考えや心持ちだった以前の私。今はとても恥ずかしく思います。やらなきゃいけないと思えばつらい家事も、修行だと思えば何だか積極的な姿勢になれると、この永平寺の訪問から気が付きました。どんなに仕事が忙しくても、家事が出来ないことを仕事の忙しさのせいにしない。前向きな心持ちを忘れずに、いつでも落ち着いた心で、毎日を楽しんで生きてみようと思います。(おわり)



「毎日の家事や仕事からでも、自分を磨くことは出来る。」と悟っていたのか。