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夢の前の貧乏物語

(1)チーズマーケットを始めるまでの山本知史社長の悲惨な生活。
 

皆さんには、貧乏の経験はありますか? その経験は良かったですか? 私は、運良く経験できました。一度でも経験しておくとお金のありがたみがぐっと分かり、お金や物、人をより大切にする様になると思います。もっとも私の場合は、子供の頃から貧乏でした。この年は特に身にしみましたが、とても実り多き一年でした。もしも今がそんな時でしたら、これを読んで是非乗り越えてください。

 

1993年の3月、ワインを自分で輸入する会社を作りたいと、32歳で年収600万円の公立中学校教員を辞め、ワインについて まず学ぼうと、帯広に越してグリュック王国のワイン売り場に勤めました。拾ってくれた社長には申し訳ありませんでしたが、実務は単純作業の長時間労働で、学べることもなく、このままではただ使われるだけだと思い、たった3ヶ月で家内に内緒で辞めました。一週間は、弁当を作って朝、いつもどおりに家を出て、公園でこれからのことを考えていました。まず今必要なのは、夢の為に勉強する時間を確保すること。そのために何を我慢するか?お金を稼げないので、極力生活費を切り詰めようと決めました。

勉強に明け暮れた一ヶ月が過ぎ貯金も足りなくなりました。(公務員を辞めても失業保険は、ゼロだったのです。)家賃四万円の支払い、健康保険、国民年金、住民税、軽自動車税、電気にガス代、水道代など、ただ息をしているだけなのに、文明社会にいるとお金がいるんだと感じ驚きました。これらの支払に四苦八苦し、とにかく食費を削ろうと、スーパーでは閉店間際の見切り品の惣菜や弁当にもうダッシュし、100gでたった45円の鶏肉やタイ米5kgで200円など、激安品ばかりを買って、自炊しました。おまけに毎日のように背広を着て、(怪しまられない様に?)ヨーカドーや長崎屋へ行き、試食の漬物や惣菜コーナーで口いっぱいほおばるようにつまみ食いをし、何も買わずに立ち去ったりと、とてもみじめでした。(今思えば恥ずかしいですが、生きるのに必死でした。)

 

ある時、帯広市八千代牧場でチーズ、ヨーグルト作り実習があり、今後の為に役に立つと思い、三千円の大金をはたいて、参加しました。もちろんタイ米で弁当を作っていきました。やっているうちに数人の奥さん方と仲良くなり、一緒にお昼ご飯を食べることになりました。自分の弁当は、隠すように食べました。そのときある奥さんが、「これ多いから食べなさい。」と自家製のおにぎりを1つ差し出してくれました。一口ほおばったらタイ米とは違うねばりのあるシャリの懐かしい味。余りの美味しさに涙がでました。普通の日本米を食べたのは、4ヶ月ぶりでした。ずっと忘れていた味でした。いつもなら残したり捨てたり、何も感じないで食べていた、たった1個のおにぎりに泣きました。今の自分には、たった一個のおにぎりも買えないんだと思い、普通にご飯が食べられる暮らしが、どんなに有り難いことなのかが分かりました。(この奥さんは、きっと私の窮状を雰囲気から感じていらしたのですね。)

 
 
(2)とにかく生活費を稼がなくては、
 

夢までの道のりは、果てしなく遠いものだと感じました。本当に自分は出来るんだろうかと、弱気になったこともありました。でも現実は、早急に生計を立てなくてはいけない。でも人に使われることだけは、嫌だという事は決まりました。おぼろげながら、ある方向が見えました。まずは、自分で珍味を売ることを決めました。ホタテの貝柱や味付けしたヒモなどです。でもお金もないし、売る場所や得意先もありませんでした。そこで片っ端から漁業組合に電話をして値段や取引条件を聞き、比較検討しました。ほとんどが前払いと言われた中、唯一湧別漁組が売ってお金が出来てからの支払いでいいと言ってくれました。とてもありがたかったです。こちらの素性を相手に伝るために、軽四で200キロを走り、すぐに会いに行き、事情を話したのが良かったんだと思います。(また貝ヒモは、紋別の教え子の家の能戸商店さんから分けてもらいました。)あとは,売り先です。

 

袋に小分けにして製品にする加工場もそうした袋やシールも用意できないので、スーパーやデパートでやっている催事販売をやろうと決めました。(経験は、無し。)とはいっても初めての帯広で、知り合いはゼロ。とにかくニチイや帯広生協、ディスカウンター、スーパーなどに電話を掛けまくり機会を得ようと必死でした。そんな中でいくつかの店舗が一週間ならいいと言ってくれました。でも場所代として売上の20%ぐらい持っていかれる条件でした。おまけに新参者の私には、そうそういい場所では、やらせてもらえませんでした。そんな中、ありったけの声と元気さで呼び込みをして売りました。恥ずかしいなんて言ってられません。開店前からラストの夜9時までずっと立ちっぱなしの仕事でした。でも自分で決めた仕事だから、つらいとは、全然思いませんでした。仕事があるだけでも、有り難かったです。昼休みは、駐車場の陰でパン一つをかじりました。(前日に半額で買ったもの)10分経つと直ぐに売り場に戻りました。トイレも行きたくない心境でした。一人でもお客さんを逃したくないと必死でした。こうした毎日の結果、お陰様でそこそこの売上げを出して、一ヵ月後には、ホタテ代をお返しすることが出来ました。

 
(3)昔とったきねづか。
 

しかしこうした実演販売も人口が少ない帯広では、次第に「あっ、またお兄さんここでもやってる。」とあきられてしまい、見る見る売上げが落ち込みました。このままではいけないと次の策を考えました。資本の掛からない仕事。そうだ家庭教師をやろうと。早速何社かの家庭教師派遣センターに出向きましたが、どこも私をいぶかしげに見ました。それはそうです。たった数ヶ月前までは,現職の公立学校教員だったのですから。どうしてやめたのか?なぜ今更、家庭教師をするのか?と。こちらとしては、べつに教えるのがイヤで辞めたわけではないのですが、なかなか分かってもらえず、仕事にありつけませんでした。ところが、もう2ヶ月も過ぎてあきらめていた頃、電話が鳴りました。「ある学生の家庭教師が問題を起こして、親からクレームが来ている。学生ではなくベテランの先生に換えて欲しい。」とのこと。それで私が呼ばれました。これは、チャンスだと思い、必死で教えました。1週間が過ぎて、子供との関係も良好で、親からも良かったと本部に連絡が入りました。それからは、こうしたトラブルがらみの家庭に派遣されるようになり、次々に仕事が増えました。待遇も断然アップしました。そして2ヵ月後には、何とか家庭教師だけで食べられるようになりました。

 

その翌年、帯広を後にして代替教員(臨時採用)の仕事をするために函館方面に移動し、2,3年繋ぎながら、遂にワインを輸入して独立の一歩を踏み出しました。こうした現状で妻に対しては、いつも申し訳ない気持ちでした。妻の実家や親戚等にも顔向けが出来ず、自分の独立の夢の為とはいえ、安定した生活を捨て、こんな生活をさせてしまい・・・、自分でも本当に情けなかったです。とはいっても私が教員を辞め、更にグリュックの酒屋を辞めた時(公園で過ごしていた頃)には,さすがに気が動転して私の実家に泣きついたらしく、実母から「いい年をして、何をやっているんだ。」と怒られ、余計な心配をかけてしまいました。(こんなことで動転するな、俺を信じろと思いましたが、・・・。)何もまだ結果を出していないので、弱い立場です。でもさらにファイトが沸きました。”必ず見返してやる、妻にも妻の両親にも、実母にも。” 教員を辞めて馬鹿だと思っている人に、「あの時は、いい決断をしたね。がんばったね。」と誉められるように。そしてこんな生活から早く抜け出したいと思い、それをバネにして道を開こうとしました。

まず時間を確保し、一日5時間、図書館にこもり、受験生以上に真剣に必死にドイツワインや貿易英語、通関業など未知の世界にトライし、勉強を積み重ねました。(実は、夢を追いかけた時の英語の能力は、中学一年程度でした。)お陰で、ほぼ1年でこの貧乏生活から抜け出すことが出来ました。

 
(4)貧乏生活から得たこと。
 

今思えば、この1年のどん底生活は、自分の物の考え方や精神面を鍛えるいいチャンスだったと思います。黙っていてもお金がもらえる公務員時代とは、全然違います。常に工夫しました。苦手なことも諦めずに、直そうとしました。そして、こう思うようにもなりました。つらいことがあると、”これは、わざと神様が私に与えた試練”なんじゃないのかと。仕事がうまくいかない時や嫌なことを取引先から言われたり、つらいことがあったときには、私にはこの状況をうまく超えていくことが出来るからこそ、こうした状況が今、自分の前にあるんだと思う様になり、つらいことも嫌なことも少しは、冷静に感情的にならずに見られるようになりました。それをまとめたことが、「自分の前にいる人を大切にする。」ということです。どんな人にもです。難しいですがこれが大事なんです。いやだなぁと思う人ほど、あとで不思議と力になってくれるんです。だからこの人には、いい顔をして他の人には・・・、なんて出来ないんです。全部取るか失うか。私からいい感じを受けた人は、必ず他の人に良かったことを伝えます。すると今度は直接会ってもいない人からすでに好意をもたれているんです。ですからどんどんお客さんが増えるんです。でも、もし私が最初に出会ったその人に親切にしなかったとしたら・・・・・・。恐ろしいですね。こうして出会った人には感謝を忘れずに、と肝に銘じています。常に謙虚で感謝することが大事だと思います。それが、次の良い出会いにつながると思います。

 

今度は私がデパートで、チーズの試食をさせる番になりました。たとえ試食するだけのお客さんがいても落ち込んだりしなくなりました。「またどうぞ。」と余裕です。そのまま帰っていった人たちの中から私のように夢を実現させる人が出て来るんだと思うとワクワクしました。せっかくだからと、「何種類も食べていってください。」と言います。私もさんざん食べさせてもらったので、何か時間を超えて恩返しをしているようです。こうして売ろう売ろうという力が入らないことでリラックスでき、逆に不思議とチーズがどんどん売れるのです。こんな調子で今は、順調にチーズが回わっていて、自分の好きなチーズをヨーロッパからいっぱい輸入出来ております。 

めでたし、めでたし。
 
(5)さて、将来独立を考えている人には、伝えたいことがあります。
 

自分の夢が叶うかどうかは、次のことで決まると思います。すぐに行動するかどうかとその回数の多さです。本を読んだりセミナーに参加するだけ(いわゆる机上の研究だけ)で、何一つ実践しないのは駄目です。どれだけの人に会うかが大事です。私は新しく人に会うのが苦手でした。(教員なのに・・・)でも自分の夢のために自分を変えました。自分の熱意は、必ず他の人に伝わります。(私の場合は、札幌の多くのシェフさんに訴えました。「力を貸してくれれば、今の札幌よりも多種多様で新鮮なチーズを安定して、安く提供するよう頑張ります。」と。これに賛同してくれる人は、その後、どんどん人づてに増えながら一大勢力となり、大きな形になっていきます。もう感謝、感謝の連続です。最後は、自分の小さな努力よりも、こうした人とのつながりの方がどれほど大事なのかが解り、「ああ自分はこの人達に生かされているんだ。」とうれし泣き。(駆け出しの頃の私を暖かく育ててくれたシェフさん達には、末長くご奉仕して、ご恩返しをしていきたいと強く思っています。) 

 
 
”叩けよ、さらば開かれん。”  この言葉を信じて初志を貫いててくださいね。

 

夢の前の貧乏物語